1.動脈瘤


 私たちが父母の介護と正面から向き合うようになったのは、平成12年(2000年)の9月末からだった。
 その半年前の4月末に母が胸部大動脈瘤破裂で守口市にある関西医科大学付属病院に緊急入院し、1カ月間CCU病棟で集中治療を受け奇跡的に命をとりとめた。その後、しばらくして旭区の牧病院に転院し、ようやく家に帰ってきたのが9月末のことだった。
 それまで両親はわたしの家から歩いて2〜3分の古い借家で二人だけの不自由のない生活を過ごしており、われわれ息子二人もそれぞれ家庭を持ちたまに行き来するだけの、世間一般によくある普通の親子関係だったと思う。
 母の胸部大動脈瘤は1998年に見つかり、当時5cm大と診断されたが、高齢でなおかつ頭の血管も動脈硬化でずいぶん細く脆くなっており、患部も動脈瘤のなかではいちばん手術の難しい心臓のすぐ上ということもあって、リスクの大きい手術はさけて、血圧を下げ生活上無理をしない消極的な処置を取ることになった。長時間に及ぶ手術に耐えられるだけの体力や、手術中に脳への血流が少なくなり、手術自体はうまくいっても植物状態になる可能性も大きいことを考えると、家族の者は父も含めて全員手術をしないことで納得していたと思う。その後動脈瘤は次第に大きくなり、去年破裂して一命をとりとめる前には8cm大になっていた。まさに爆弾を抱えて生活していたわけで、本人は何も言わなかったがいつお迎えが来るのかとつねに不安な気持ちだったのではないだろうか。
 最近「そろそろわたしもあっちへ逝かんと迷惑かけるし…」とよく母が言い、「いくもいかんも神様が決めはんねん、我々が勝手に決められへんで。まだいくのは早いと思わはったから去年も助かったんとちゃうか。そろそろええなと思うたらいやでも逝かしてくれはるで。それが寿命やんか」と答えるたびに、本当にあれでよかったのか、一か八か手術に踏み切ったほうがかえって母のためにはよかったんじゃないか、肉親といえども果たして私たちにあんなことを決める権利があったんだろうかという思いが今でも付きまとってしまう。

 話は少し逸れるが、母の病気が発見されたのは、守口市が市民全員を対象に行なっている無料の健康診断がきっかけになっている。98年の健診で高血圧や高コレステロ−ル症の疑いがあるとの指摘を受け、かかりつけの医師に受診したところ、レントゲン写真にどうも動脈瘤のような影が映っているので大学病院で精密検査をするようにすすめられたのである。まもなく関西医大病院でみてもらった結果、思いもかけずいきなり車椅子に乗せられ即刻入院と宣告されみんな大あわてした。
 本人がいちばん驚いたと思うが、その後の対応を考えるとその時病気がわかって良かったのではないかと思っている。いやいや、そうではなく何も知らないまま…血圧も高いままある時突然動脈瘤が破裂して亡くなったほうが良かったのかな、と思ったりすることもたまにあるのが本音である。

 2000年9月25日、半年間の入院生活を終え母がようやく自宅に戻ってきた。入院時の最後の一ヵ月ほどは、食事こそあまり食べないことが多かったが、帰りたい一心でリハビリも懸命にやりトイレなどはなんとか自分でできるまでに回復していた。母の希望はもちろん父との二人の生活を取り戻すことなので、牧病院の介護部門のケアマネ−ジャ−のかたと相談のうえ介護保険を利用して、買物や調理などの家事援助のために月曜から土曜までヘルパ−さんにきてもらい、さらに週に3日の訪問看護もお願いすることになった。(ちなみにこの時の母の要介護度判定は5であった)。
 母にとってはやっとの思いで退院してきたわけだが、実はこの時あれほど元気だった父に異変が起きていた。

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