2006年2月





かつて天下を分ける戦が2回行われた場所がある。
西美濃に位置するその場所は、関ヶ原という。

大海皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)との戦いが行われ、
石田三成と徳川家康との戦いが行われた。

今年に入り、かつてTVドラマで放映されたDVD「関ヶ原」を購入し、
同じくTVドラマの「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い」を見たうえ、トドメに
PS2のソフト「戦国無双2」を購入した。

これはもう、関ヶ原に行くしかない!!という事で、関ヶ原散策に行くこと
にした。
特に、400年以上も裏切り者のレッテルを貼られている小早川秀秋の陣
跡である松尾山にも登ってみたい。
また、ここには、私が次に欲しい兜もあるので、これはもう、下見するし
かない!?






大阪駅を朝7時18分に出発する新快速に乗り込む。
8時37分に米原駅に到着。
ここで、名古屋行きの快速に乗り換える。



珍しく長い車両編成なので、座ることが出来る。
8時47分に米原を出発した快速列車は、9時08分に関ヶ原駅に到着した。
2度目の関ヶ原訪問である。
《前回の関ヶ原散策》(←click)






早速、駅前のレンタサイクル店で、自転車を借りる。



4時間以内で、500円である。





まず、関ヶ原町歴史民俗資料館へ向かう。



途中、井伊直政・松平忠吉陣跡がある。


【井伊直政・松平忠吉陣跡】
開戦時、先陣と決められていた福島正則の軍勢を出し抜こうとした軍勢である。

彼らは、ここから島津隊に攻め掛かった。






次に関ヶ原町歴史民俗資料館に到着。



入館料310円を払い館内に入る。



(展示室入口には、竹中半兵衛重治の像が。)



早速、お目当ての石田三成乱髪天衝脇立兜に食いつく。



じーっくりと眺め、写真を撮りまくる。
前回、ここを訪れたとき、まさか、ここまで食い入るように見るなどとは、
夢にも思わなかった。




また、小早川秀秋の陣があった松尾山城の鳥瞰図もあり、松尾山を登った時
の参考になりそうだ。




今回も土産物を数点買って出た。


次に館前にある、陣場野の徳川家康最後の陣跡を見る。






【陣場野 徳川家康最終陣跡】
この場所で、合戦後の首実検が行われた。

周囲に土塁が張り巡らされている。
天保12年(1841)、幕府の命により、領主竹中氏が築いたそうな。
(↑戦後240年も経ってからかい!?)




再び、自転車に跨り、今度は岡山(丸山)烽火場へ向かう。






【黒田長政・竹中重門陣跡】
低い山であるこの場所に、黒田長政と竹中重門の陣があった。
(かつての秀吉の軍師と言われた竹中半兵衛と黒田官兵衛の子ら)

慶長5年(1600)9月15日(現在の10月21日)午前8時頃、
ここから烽火が上げられ、東軍諸隊が進軍を開始した。

黒田長政は、小早川秀秋らの裏切り工作の功で、豊前中津から、
備前に移った小早川秀秋の代わりに筑前52万3千石を拝領し、
福岡城を築く。ただし、この動乱の隙に天下を臨んだ父・黒田
孝高にとっては、この活躍は、すこぶるおもしろくなかった。




次に笹尾山へ向かう。






途中、関ヶ原古戦場激戦地の碑の前を通る。



眼前に、笹尾山の石田三成の陣がある。
そこまでは、緩やかな勾配となっている。
この勾配のおかげで、石田隊は粘り強く、戦えたのであろうか?
石田隊の中には、蒲生氏郷の旧臣も多く、石田隊の強さを伺える。






笹尾山の石田三成陣跡に到着。


【笹尾山 石田三成陣跡】
こちらも小高い山になっており、関ヶ原の陣跡で、唯一、竹矢来が
復元されている。






笹尾山からみた関ヶ原の眺望。
開戦時、西軍の烽火が上げられた。



前衛には、島左近や蒲生郷舎などの優れた武将がいた。
石田三成自身は、戦闘上手のいわゆる猛将では無いが、
兵站将校としては、当時の日本を代表する武将である。

まさかとは思うが、江戸時代に石田三成は御用学者共に貶まれたから、
兵站の重要性まで失われ、それが日本人の考え方として植え付けられ、
旧日本軍の悲劇を招くこととなったというのは、考え過ぎか!?






ここまでは、前回訪れた場所である。(烽火場除く。)


今回の関ヶ原散策では、まだまだこれからである。




次に、笹尾山の南にある島津惟新斎(義弘)と甥・豊久の陣跡を訪れる。



神社の裏手に陣跡がある。
北国街道を押さえるため、ここ小池村に陣を張った。



【島津惟新陣跡】
前衛に島津豊久、後衛に島津義弘の島津隊は1500名。
薩摩・大隅60万石9千石の大大名にしては、かなりの少数である。
しかし、大量の鉄砲を装備した部隊は、西軍でもトップクラスの戦闘能力を有していた。
当初、徳川方に味方するべく本国を出たが、成り行きで西軍に付く。
井伊・松平・本多隊と激闘を繰り広げるが、三成の指示は受けなかったという。
決戦前日に彼らが提案した夜襲案が三成に受け入れられたなら、どうなっていただろうか?
少なくとも、島津勢は、その後の戦に積極的に戦ったであろう。
西軍が総崩れした際、わずか300ほどの兵が残っていた。
東軍諸隊は追撃戦に移行していたが、その最中、島津隊は東軍の中を突き抜けるという
決死の「捨てがまり」を敢行する。
島津豊久が討ち死にをする激戦で、義弘が伊勢街道に逃れたときには、わずか80人ほどの
兵しか残ってなかったという。
また、徳川方の井伊直政もこの際受けた鉄砲傷がもとで、のちに死亡する。
島津隊が退却戦を開始するとき、丁度、その横を家康の本体が通りがかっている。
この時、島津隊が家康めがけて突撃したら?と考えてみるのもおもしろいかも知れない。




島津の陣跡の南側に北天満山の小西行長の陣跡がある。次はそこへ行こう。








【北天満山 小西行長陣跡】
宇土城を居城とした肥後半国のキリシタン大名・小西行長の陣である。
兵は約6000名。ここ北天満山に布陣した。
午前8時にここからも西軍側の開戦の烽火が上げられている。

小西隊も勇戦していたが、小早川の裏切りにより混乱した小西隊は、本多隊の攻撃を受け、
敗走した。
キリシタンであるが故に自害しなかった行長は、捕らえられ、石田三成らと共に
京都六条で、刑死した。




この少し南が、開戦の地である。



井伊直政隊に先陣を出し抜かれそうになった福島正則隊が、南天満山に布陣する
宇喜多隊に一斉射撃を行った場所である。




では、次にその
南天満山の宇喜多秀家の陣へ行こう。



天満神社のある森の中へと入る。




【南天満山 宇喜多秀家陣跡】
神社がある付近に宇喜多秀家の陣跡がある。
備前・美作他の57万4千石の大名にして豊臣五大老一人である宇喜多秀家は、西軍最大の
1万7千の兵を率いて参戦した。
開戦時、前衛の明石全澄隊は福島正則隊と激戦になる。この中に宮本武蔵も戦ってたという。
なお、前年に家中で騒動があったため、優秀な家臣らが宇喜多家を去っている。
秀家は、西軍敗走後、鹿児島まで逃れる。
後、妻の実家である前田家や島津家の助命もあり、八丈島に遠島となる。
彼は、その地で83歳までの50年間を島内で暮らした。



ここから南にある、大谷吉継の墓所へと向かう。





途中、少々無理して藤古川ダムを越える。




この辺の道は工事中で、非常に通り辛い。








途中、自転車を止め、宮の上の森の奥深くへ進んでいく。






【宮の上 大谷吉隆(吉継)墓所】
そこには、越前敦賀5万石の大名・大谷吉継の墓と家臣・湯浅五助の墓が並んでいる。
大谷隊と戦った藤堂高虎が立てた。高虎の人徳を感じることができる。

この南側に大谷吉継の陣がある。
三成挙兵の時、友人である大谷吉継は、思い止まらせるように説得を繰り返したが、
三成の決意は固く、三成に殉じることにしたという。
その時、らい病を煩っていた彼は、殆ど目も見えないほどの重病で、この場所を
死に場所と定めたのであろう。
また、小早川の裏切りを早くから感じていた吉継は、松尾山の下に布陣したという。
大谷隊は本隊は600名。それに戸田・平塚隊を合わせて1500名の兵が配置されていた。
事実、裏切った小早川隊と激戦を繰り広げ、3度も撃退している。しかし、脇坂・朽木・
小川・赤座の裏切りにより、大谷隊は壊滅し、湯浅五助の介錯により自刃した。またその
首級は、湯浅五助によって隠された。湯浅五助は、藤堂家の家臣によって討たれるが、そ
の際、主人吉継の供養を依頼したという。その経緯があって、藤堂高虎が両人の墓を建て
たのであろう。五助を討った藤堂仁右衛門は、家康に吉継の首の隠し場所を尋ねられるも
答えなかったという。



松尾山で要する時間がわからなかったので、大谷吉継の陣跡へは行かなかった。
なお、大谷吉継の陣の南側には、常磐御前の墓もある。



再び、工事中の道に戻る。
ここには、大谷吉継と共に戦い討ち死にした垂井1万2千石の城主・平塚為広の碑がある。


【平塚為広の碑】




南に下り、旧中山道に出る。


これから、松尾山へ向かう。


途中、不破の関にさしかかる。


【不破の関】
壬申乱の後、天武天皇が、この場所に関を設けたとされる。
延暦8年(789)、120年ほどで停廃され、関守が置かれることとなった。







しばらく行くと、松尾山の案内がでてくる。


新幹線の高架を抜けると、眼前に松尾山がある。






麓で自転車を止め、歩いて登る。(案内板では、片道40分)





途中、若干のアップダウンがあり、それがしんどく感じる。





登り切ったところに松尾山の陣跡が登場する。



時計を見てみる。どうやら、20分で登ったみたいだ。
かなりの汗をかいてしまった。



【松尾山城(小早川秀秋陣跡)】
応永年間(1394〜1428)に富島氏が築いたとされる。
永禄12年(1569)、信長に帰属。
元亀元年(1570)、浅井長政が修築
天正元年(1573)、信長、家臣の不破光治を入城させる。
天正7年(1579)、廃城
慶長5年(1600)、小早川秀秋が陣を構える。


標高293mの松尾山山頂は、関ヶ原の激戦地を一望できる抜群のロケーションである。

笹尾山の石田三成の陣の幟旗も見える。



合戦当日、1万5000の大軍を率いた若干19歳の小早川秀秋は、この場所から、どちらに
つくか思い悩んでいたのであろう。
総大将として渡海した朝鮮の戦役で、自ら槍を振り回し敵と戦った行為が総大将らしからぬと
石田三成通じて豊臣秀吉に報告され、勘気を被った。その際、助け船を出したのが、徳川家康
である。心情的には、石田三成より徳川家康であろう。
結局のところ、自らの愚行の逆恨みではあるが、若い秀秋にとっては、このことが影響している
のかも知れない。


主郭(本丸?)は、土塁で囲まれている。




また、主郭に入るところには、虎口が設けられている。




奥には土橋などもあり、山城としてじっくり見て回るのも楽しそうだ。




だが、今回はこれまでといたす。




小早川秀秋は、裏切りの功績により、筑前名島36万石から備前・美作51万石に封ぜられ、
岡山城城主となる。しかし、2年後の慶長7年(1602)にわずか21歳の若さで死去する。
そのあまりにも早すぎる死の原因には、諸説がある。
その翌年、徳川家康は、征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。
この国に260年の長きにわたり、中世の封建制度が続くことになり、欧州の先進国に比べ
産業や技術の分野において100年もの溝を空けられてしまうという発展途上国へと成り下
がるのであった。
そして、小早川秀秋は、400年以上経つ今日でも、「裏切り者」のレッテルがはがれない。
昨今、再評価の向きもあるが、大谷吉継の墓所を回った後では、やはり、裏切り者としか言い
いようがない気分にさせられる。



ただ、戦国時代から武具開発が260年に渡り停滞したことで、今現在、
私は、「甲冑」を楽しむことが出来ているのかも知れない。



下山後、関ヶ原の駅に戻ることにした。





途中、月見の宮というお宮さんのところに福島正則の陣跡があった。


【月見の宮 福島正則陣跡】
尾張清洲20万石の大名・福島正則が兵6000を率いて、ここに布陣していた。
賤ヶ岳7本槍の筆頭にして、猛将として名高い福島正則は、石田三成に憎しで、家康方に付く。
この戦では先陣を賜るも、井伊隊の抜け駆けにより、急遽出陣し、宇喜多隊と激戦を始める。
戦後、芸備49万石の大大名として封じられるが、豊臣系の外様雄藩として、幕府に目を付けら
れ、豊臣家滅亡後、広島城無断修築の謀略(?)にかかり、改易となる。





ようやく、関ヶ原の駅にたどり着く。
3時間のサイクリングと1時間の登山であった。
家康最初の陣、桃配山や他の東軍諸隊の陣跡を数多く残してしまっている。
それらは、また次の機会にしよう。



13時04分、大垣行きの普通に乗り込む。



今度は、2両編成の列車なので、人が多く、座れない。
(次の駅から座れた。)




13時16分、大垣駅に到着。






少し、南に歩くと大垣城にたどり着く。






2度目の大垣城である。(前回も関ヶ原と一緒)


【大垣城】
大垣城は、応仁年間には、東大寺城と呼ばれ、代官の大垣氏が城主であったそうで、
そこから大垣城と呼ばれるようになった。
天文4年(1535)、美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定が城郭を築き、
その後、城主になった氏家ト全が城郭の建築工事を施した。
天正13年(1585)、秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じ、
天正16年(1588)7月、四層四階建て総塗りごめ様式の優美な天守閣が完成した。
関ヶ原の合戦以後は、戸田氏が十万石の城主となり明治まで至る。
天守閣は国宝として昭和の時代まで残るが、昭和20年(1945)、米軍の空襲により焼失した。
現在の天守閣は、昭和34年(1959)4月に昔どおりに再建されたものである。

《前回の大垣城訪城》(←click)

  

かつて多くの水堀で囲まれた堅固な城であったが、今日では、その姿を残さない。
ただ、七つあった門跡では、解説板が設置されているとのこと。









(国宝当時の大垣城天守)





大垣駅に戻る途中で、寿司屋のランチをいただく。
(2時までのサービスタイムだが、1時50分で間に合った。)







14時25分、名古屋方面へ向かう新快速に乗り込む。








14時37分、岐阜駅に到着。


大阪へ戻る特急に乗るまでの間、岐阜城へと向かう。


新岐阜から岐阜バスに乗り、岐阜公園へ。14,5分ほどで着く。






《前回訪城した時の岐阜城》(←click)

今回は、遅くとも17時までに岐阜駅に戻らなければならないので、
ロープーウェイを利用することにした。


        

【岐阜城】

信長公の像に御挨拶をし、千畳敷の居館跡を抜け、ロープーウェイ乗り場へ。










10分間隔で運行していたロープーウェイに乗り込む。





すぐに到着だ。

今日は、やけに人が多い。団体客がいるからだろうか?

さすがである。今年(平成18年)のNHK大河ドラマは『功名が辻』であるため、

至る所に「千代が愛した一豊とぎふ長良川」と書かれた看板や幟旗が目に付く。




復元冠木門をぬけ、天守閣を目指す。







【岐阜城天守閣】

資料館となっている天守閣内部も人が多い。入口付近で詰まるぐらいだ。





何度も見ているので、一通りかるく見学して、最上階へ。



そういえば、昨夏、夜景の撮影をしにこの場所へ来るのを忘れていた。
今年こそは・・・



もう一つの櫓風資料館を回った後、



下山することにした。





途中、天狗岩というところがある。
木下藤吉郎が、初めて瓢箪(後の千成瓢箪)を使用した場所らしい。

永禄10年(1567)8月14日、稲葉山城攻略の際、織田家臣・木下藤吉郎が
蜂須賀小六や山麓で猟師をしていた堀尾茂助ら7名で、この岩戸口から侵入し、
奇襲に成功した際に、槍先に瓢箪をくくりつけ、勝ち鬨を上げた。らしい。
この話って、太閤記の中のおとぎ話の一つだと思っていたのだが・・・史実なのか?




そのまま進むと、七間櫓跡と復元土塀がある。



ロープーウェイで下り、ロープウェイ乗り場にある土産物屋で、岐阜城のガイドブックを
購入した。


県立歴史博物館前のバス停に向かう途中、ある物を発見した。


モニュメントである。NHK大河ドラマは『功名が辻』の主役山内一豊&千代の碑が建てられていた。
今年は彼ら一色だな。




時間的に少し早いような気がしたが、再びバスに乗り、新岐阜へ。







岐阜駅でチケットを買うのに結構時間が掛かったので、早めのバスに乗って良かった。





チケット購入後、少しお茶をする。






17時09分、特急「ワイドビューしなの16号」に乗り込み、大阪を目指す。



車内は結構空いていたので、のんびり気分に浸れる。



いつも、新快速で通り抜ける路線をたまには特急でゆったり帰るのもいいかも。





今回、念願の関ヶ原散策(松尾山登山)をすることが出来たが、まだまだ回り足りないので、
またいつか行くことになるであろう。